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雪中庵蓼太は信州伊那郡大島村の人。
芭蕉門十哲のひとり服部嵐雪(一世雪中庵)の流れをくむ俳人で雪中庵三世を称し、江戸中期の俳壇において活躍した宗匠である。著書に「筑波紀行」、「蓼太句集」「発句小鑑」などがある。
この句碑の表面には「たましひの入れものひとつ種ふくべ」と蓼太の句が刻まれ、裏面には「空摩居士自隠禅士の隻手の 音を聞く・・・・・・、居士は天明七年丁末九月七日を以て没す、今慈に二十七回忌の正当を営む、よって常陸、しもふさの我おしえる子等と力を合わせ、 遠つ海の石を運びて瑠璃光山に分骨を納む、なほ枯木裏の龍吟となりて、とこしなえに尽せざれと。 文化十年癸酉九月七日、筑波庵道隣謹記、薫堂井敬儀筆」と記されている。 建立者道隣とは、上町杉野治兵衛氏のことで、俳人筑波庵翠兄と称して龍ヶ崎を中心とした常陸・下総に多くの門弟をもち、 晩年蓼太に傾倒し高弟となった。
天明6年(1781年)、蓼太は龍ヶ崎に招かれ、数日間滞在して探題を催し、頼政塚や奈戸岡三本松などの名所旧跡の句 を残し、著作「筑波紀行」には、翠兄と同行の句がある。
蓼太の没後27回忌にあたる文化10年(1813年)に翠兄は常陸・下総にわたる門人を集めて、その供養を営み、 この句碑を建立した。
平成5年3月 龍ヶ崎教育委員会
嘉永5年(1852年)改修工事の際、新調した高欄の擬宝珠。
刻まれている銘文によると、
この長十郎こそが、明治7年(1874年)市川家に戻り、九代目 市川団十郎を襲名したのである。
龍 瓦 と 獅 子 瓦
いずれも改修前の本堂の屋根上に魔除け、災い除けとして有ったもの。
平成の大改修にて銅板葺きにしたため、現在は本堂前に庭飾りとして置いてあります。
通称「観音様(かんのんさま)」と呼ばれる観世音菩薩です。
頭に冠をかぶり、天衣という衣をかけて、未開の蓮を持っています。
我々の願い事を叶えて下さる、慈悲深い御利益があります。
(寄贈 大貫 英世殿)